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与那国・石垣研修 

カテゴリ:青年部会

私がともに代表を務める大阪防衛協会青年部会と近畿ブロック防衛協会青年部会連絡協議会の合同事業として7月6日から8日まで表記の研修を行った。両組織の会員ならびに全国防衛協会連合会青年部会の中村光良会長、中畑利介監事も含め14名の参加者があった。

初日は日本最西端の島、与那国を訪問した。各自がレンタカーやバイクにて周囲27キロほどの小さな島を視察して回る。与那国島は我が国の防衛の空白地帯であり島民は1500名で警察官2名、拳銃2丁でこの島を警備しているのは有名な話である。

そもそも南西諸島防衛では第15旅団がある沖縄本島より西には陸自の部隊はない。久米島と宮古島に航空自衛隊の航空警戒管制部隊(レーダーサイト)があるだけで防衛上の一種の「空白地域」である。

2010年12月17日に閣議決定・公開された防衛計画の大綱及び中期防衛力整備計画において200人規模の沿岸監視隊配備が盛り込まれ、平成23年度防衛予算では調査費として3000万円が計上された。

現在この計画がどこまで進んでいるのかは防衛省内局のみが知るということらしいが、自衛隊員が駐屯されると中国の軍事的な脅威に対して、南西諸島に存在する警戒網の死角を埋める意味があるとされる。

現在まだ駐屯地の立地も決まってはいないと聞き及ぶ。人口1500人の島なのでほとんど道路に人を見掛けない。牛を放牧があちこちで見られる。

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それと同様に自衛隊誘致賛成の幟と誘致反対の幟が町のあちこちで多く見られた。

sannseinobori.jpg

hantainobori.jpg
(誘致反対の幟)

最西端に沈む夕日をバックに国歌斉唱から始まる結団式を行った。うっすらと見える台湾(100キロの距離らしい)に向かって自分の国は自分で守ることを誓い合った。

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町一番のレストランにて与那国防衛協会主催の歓迎会を行っていただいた。お店貸し切りで「どなん」泡盛とともに国防について熱く語り合った。

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自衛隊誘致の推進力となった与那国防衛協会の金城信浩の歓迎の挨拶から始まり、
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(泡盛工場や肉牛の飼育、ガソリンスタンドなど幅広く事業もされている与那国防衛協会の金城信浩会長)


与那国町長の外間守吉氏、崎原孫吉町議会議長、与那国商工会の入波平浩伸会長、今回カウンターパートを受けていただいた与那国防衛協会副会長でもある糸数健一議員、その他多くの若手の防衛協会の方や町役場の役職者などそうそうたるメンバーとの交流会となった。

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町長の外間氏は挨拶の中で「太平洋戦争で犠牲になったのは沖縄県民だけではない、広島、長崎、東京、大阪も同じように多くの人がなくなっている。沖縄だけを特別に見てくれという考え方や風潮はそろそろ脱却しなけらばならないと思う、もっと日本全体のことを考えよう」と言う挨拶には感動した。

tyoutyo.jpg


聞くところによると反対派も改革派としての反対(反対の中の2割くらい)もあるが、そもそも論として自衛隊が与那国に来ることは反対ではないが国民が誘致してきてもらう性質のものではないので(これは石垣の中山市長も同様のことをおっしゃられていました)町が「誘致」するということには反対という立場の方も多いとおっしゃられていた。

防衛協会副会長の糸数健一議員も島の人口がどんどん減っていく現状を鑑み(外国人参政権の問題もあり)この島に人が住まなくなれば日本の明日はないと言っておられた。医者もいないし牛を育てていても処理施設もない。 物価もどうしても高く、学校もないために15才になればみんなこの島を出ていく現状と言っておられた。


防空識別圏の正常化が昨年に防衛省により通知された。

防空識別圏とは,領空の外側に設定される空域のことで、飛行する航空機が領空に入る前に「味方か味方でないか」を識別するための空域である。。

なぜ与那国島が問題だったかといえば与那国島の西側が台湾空軍の防空識別圏だったからです。
台湾との空域に余裕がなくスクランブルの判断が困難でありました。
(ちなみに航空自衛隊がスクランブルを掛けたのは平成21年度で299回と聞き及ぶ)


翌日糸数議員に案内されて島をあちこち歩いた。

最初に軍神と呼ばれた陸軍大尉 大舛松市氏の墓。大正6年8月6日生まれ。沖縄県与那国島の出身で,沖縄第一中学,陸軍士官学校を卒業後,任官。昭和18年1月13日ガダルカナル島で戦死。27歳。沖縄県人としてはじめて個人感状をさずけられ,「大舛大尉につづけ」の合い言葉ができた与那国の尊敬される偉人。

oomasunohi.jpg

碑文には

「うらぶ(地元の山の名前)の高きを思うなかれ

 大空の限りなきを知れ

 島の小さきを憂うるなかれ

 太平洋の広きを見よ」

県立一中のころの望郷に思いを寄せたと思われる言葉が刻まれている
志を高くもとうということを述べられているのであるが、糸数議員曰くは沖縄はアメリカから日本に返還される前のほうが日本らしかった。。この国の行く末はどうなるのだろうとおっしゃられていた。


続いてティンダハナタの高台に立った。その頂きに屏風のようにそそり立つ分厚い岩壁に石碑が嵌め込まれている。


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「讃・與那国島」と題して伊波南哲という人物が詠った詩である。

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荒潮の息吹きに濡れて
千古の伝説をはらみ
美と力を兼ね備へた
南海の防壁 與那国島

行雲流水
己の美と力を信じ
無限の情熱を秘めて
太平洋の怒涛に拮抗する
南海の防壁 與那国島

詩は第三節、第四節と続き、与那国島を「沈まざる二十五万噸の航空母艦だ」と謳って結ばれている。「紀元二千六百三年三月」、昭和18年3月のまさに戦時中の詩である。


与那国の住民や駐屯する日本軍の士気を高めるものとして造られたものとお聞きした。

「この島の防人意識を表わした碑で。昔はこういう気持は国民の誰の心の中にもあったと思います」と、糸数氏はおっしゃられていた。

 本当に多くの島の方々に歓迎いただき、またお世話になった。
より多くの方々がこの島に、国境警備に対して国防の意識を持っていただくことを希望する。


(続く・・・・)




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